鹿児島市の地形図
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喜入瀬々串町
しかし、元禄11年(1698年)に薩摩藩が領内の郡郷について村里の広狭地形を製図することとなり、検分が行われた。薩摩藩の検使は「瀬々串は一村である。正保目録でも瀬々串村として一村を形成しているので、喜入は上村・下村・瀬々串村の三村とすべきである」と申し渡したが、喜入郷の役人が検地帳や宗門改を根拠に瀬々串村は上村に属すると主張した。喜入肝付氏当主肝付久兼は絵図所に対して上村・下村の2村である旨を申し立て、結果として瀬々串村の独立は認められず、上村・下村の2村として決着した。ただし、村としてではなく「在」と呼ばれる薩摩藩の行政区画として瀬々串は置かれていたとされる。江戸時代の後期には庄屋も置かれた。
平均標高:175 m